2004-04-06 第159回国会 参議院 文教科学委員会 第8号
一九四九年、湯川秀樹先生が中間子理論によってノーベル賞を受賞されました。これを顕彰して一九五七年、京都大学に湯川研究所が創設されました。その際も日本学術会議、特に原子核特別委員会の援助が極めて大きなものでありました。初めは京都大学のみのものでございましたが、日本じゅうの素粒子原子核理論の研究者がここをメッカとして集まってまいりました。私もその一人であったわけであります。
一九四九年、湯川秀樹先生が中間子理論によってノーベル賞を受賞されました。これを顕彰して一九五七年、京都大学に湯川研究所が創設されました。その際も日本学術会議、特に原子核特別委員会の援助が極めて大きなものでありました。初めは京都大学のみのものでございましたが、日本じゅうの素粒子原子核理論の研究者がここをメッカとして集まってまいりました。私もその一人であったわけであります。
度々私は、古くは湯川秀樹先生の中間子理論、朝永振一郎先生のくりこみ理論、福井謙一先生のフロンティア電子理論、最近では野依さんの触媒による不斉合成、小柴昌俊さんのニュートリノ天文学のどれもがボトムアップの精神によって成功した大研究であり、ボトムアップの精神によって伸びた大研究であり、トップダウンで行われたものではないということを繰り返し強調してまいりました。
湯川先生の中間子理論、それからハイゼンベルグの量子力学、それからアインシュタインの相対性理論、いずれも二十七歳と言われております。 ですから、理論物理も余り余計なことを知らなくてもそういう世界的な仕事ができる分野でございまして、だんだん基礎知識の要る分野の方がふえてまいりまして、化学とか医学の分野では、かなりのお年になってからいい仕事をしていらっしゃることがあるわけでございます。
そしてそれを発表したら中間子理論になった。おまえは勝手なやつだと言われたけれども、それがノーベル賞につながったら、あれは独創的だと言われた。こういう講義、私はほかのことは全部忘れましたけれども、それだけは覚えているのです。 そういうことを考えると、創造性とか独創とかいうのは、結果的に成功しないと言われないのですね。
それで、何というか、積み上げて発見するんじゃなくて、はっとひらめいて発見するのが二十前後と言っていますから、事実アイザック・ニュートンが万有引力を発見したのは二十二歳、湯川さんが中間子理論を予測した発見が二十八歳、こういうことであります。したがって、はっと思いつくような発見というのは二十代なんですよ。数学なんかはもう二十過ぎたらその辺だというんですよ。芸術は違うんですよ。
たとえば少数派として、一、コペルニクスの地動説、二、湯川秀樹先生の中間子理論を発表された当時は少数派でした。 山名先生の実験内容が物理的に、はたまた論理的に正しく、事故調査の重要な資料になるにもかかわらず、その内容を見抜く識見を持たず、事故の調査の審議を打ち切ってしまい、原因を出せない状態にしてしまった調査団長と事務当局の責任は、重かつ大なるものがあると思います。
それがないばかりに、湯川さんの中間子理論も、あるいは坂田先生の二中間子論とかニュートリノとかいうような二種類の存在についての実験は外国でないとできない、こういうことでは日本の科学政策というものがまことに貧弱きわまると言われてもしかたがないと思います。
○小坂善太郎君(続) また、その中間子理論とはいかなるものであるかということを、常識的にも説明し得る人が、一体日本人の中に幾人おるであろうかということを考えますと、われわれは、われわれの科学技術に対するところの国民的な関心のレベルというものに対しては、あらためて反省せざるを得ないように考えるのであります。
武谷さんにお尋ねしますが、湯川さんがアメリカの原子核破壊研究所と覚えておりますが、そこへ招聘されるという新聞記を見たのでありますが、この原子核破壊研究所と、今度湯川博士が表彰の対象になりました中間子理論との関係をお尋ねしたい。